玄室としては中規模だが、浴場としては破格の広さといえる。
 たちこめる湯気のせいで、部屋の端から端まで見渡すことすら容易でなかった。

 時折、蒸気の切れ間から、豪奢極まりない内装が覗く。
 磨き上げられた結晶質の白壁には、花や妖精の浮き彫りがなされ、輝く真鍮の導水管が
その合間を伝う。白大理石の湯殿に張られているのは、澄み切った青色の湯。純白と薄紅を
基調にした内装との対比が美しい。
 ともすれば、ここが血臭漂う地下迷宮の一角であることを忘れそうになる。

 マクシーンは、浴槽の縁に頭を乗せ、浅い湯船に身体を横たえた。
 力を抜き、四肢を伸ばすと、魔力の泉の強い浮力が働いて、その大柄な身体がゆっくりと
浮かび上がる。
 ぬめらかに潤った肌は、長湯のためすっかり薄桃色に色づいていた。体中に走った無数の
古傷が、鮮やかに浮かび上がる。

 左手が乳房に伸びた。ごつごつとした掌で乳首を転がすようにして、円を描き揉み解す。
 右手の指は浮かび上がった創傷に伸ばされる。粘度の高い湯を絡めた指先で、己が体の
古傷の、皮膚の薄い部分を一つ一つ、丹念になぞっていく。

 マクシーンは目蓋を落とし、脳裏にある男のイメージを描いた。
 男の指先が自分の乳房を無遠慮に揉みしだく。
 男の舌が、体中の傷跡をねっとりと舐めてゆく。
 すると、湯で逆上せるのとはまた異なった熱が、下腹部にわだかまってゆくのがわかった。

 手の届く範囲の古傷を一周した右手が、今度は熱を帯びた股間へと導かれる。
 複雑な襞が絡み合ったそこに、三本の指を添えた。
 指の腹で撫ぜるように、緩やかな呼吸のリズムで上下に動かす。すると、掌の剣だこが
敏感な包皮にひっかかり、疼くような快感が走った。

 気分を出すために、鼻の奥を鳴らしてみる。
 口蓋が震え、少しだけ動悸が早まった。
 左掌の下で乳頭が硬くしこるのを感じる。
 たわわな乳房をきつく握りながら、意識を下腹部に移す。人差し指と中指を折り曲げて、
ほぐれ切った陰唇の中につぷと沈めた。

「ん……ふん……」
 二本の指を抜き差ししながら、体の奥の急所を擦り上げる。
 それは的確な動きだったが、同時に物足りなくもあった。
 マクシーンはイメージの中で自分に挿入する男の動きに合わせて、荒々しいくらいに
指の動きを速めた。欲望のままに振り回される自分を想像し、痛みが勝るほど乱暴に膣中を
掻き乱す。

 ピークは直ぐにやってきた。達するためだけの動きなのだから、当然だった。
 しなやかな両足を突っ張るように伸ばし、股間に力を込める。
 腰部の芯に切ないような感覚が走り、膣内がきゅっと収縮した。
「ん、ふ、ん、……はあっ」
 小さく肩を竦ませ、熱い呼気を吐き出す。
 絶頂と呼ぶのが憐れになるほど小さな山だったが、とにかくそれを越えることができた。

 ぬるりと指を引き抜くと、そのまま再び体の力を抜き、浮力に全身を委ねる。
 股間のわだかまりは置き火のように燻り、爽快感とは程遠い倦怠がマクシーンの中に
広がる。

 徒労だった。
 一瞬、後悔と自分への苛立ちが沸き上がる。
 しかし、それさえも、心身を冒す気だるさの中に埋もれてゆく。
 マクシーンは茫洋とした気分で湯船をたゆたう。
 蒸気のこもる室内の様子と重なって、頭の中にぼんやりとした靄がかかっていった。

 *  *  *

 どれくらい朦朧としていただろう。
 それほど長いことではなかったはずである。間を置かず現れた闖入者たちによって、
浴場内の倦怠に満ちた空気が塗り替えられてしまったからである。

 きんきんと頭に響く黄色い嬌声が、マクシーンの意識を急速に引き戻す。
 扉を開けて入ってきたのは、三人の結い上げ髪の裸女であった。
 白い肌、柔らかく熟れた尻に、豊満な胸。
 三人が三人とも、それぞれに魅力的な肢体を、余すところなくさらけ出している。
 女たちは先客の存在に気づいていないらしく、ぺちゃくちゃと喋り交わしては、揃って
けたたましい笑い声を上げた。
 上品なまとめ髪には似つかわしくない、思いのほか品のない笑い方だった。

「素顔? さあ、見たことないね」
「堅物なのさ。こんだけ美女が侍ってるってのに」
「不能なんじゃないかしら?」
「どうかね。名前からすると立派なもんを持ってそうだけどねえ?」

 下世話な会話の内容もさることながら、一瞬にして切り替わってしまった場の空気に
マクシーンは一気に興が殺がれた。声のよく響く浴場の中では、無視することもできない。
 自分達が話題に上らせている当の本人がそこにいるとも気づかず、女たちは夢中で噂話に
興じていた。

 マクシーンは無言で立ち上がる。
 湯が身体を滴り落ち、水音が跳ねた。
 そうしてようやく、結い上げ髪の女たちは自分達以外の存在に気がついた。
 三人が一斉に音の主に視線を向ける。

 会話が止まった。
 あたりに、文字通り水を打ったような静けさが戻る。
 マクシーンはその沈黙の中、悠々と浴室を横切ると、身体を拭うのもそこそこに扉を
開け放つ。

 その様子を、女たちは呆気に取られたようにして見つめていた。
 思いもかけず先客がいたことに驚いたというのもあるが、それだけではない。
 単純に、マクシーンの裸体に見入ってしまっていたのである。

 マクシーンの裸体は、この迷宮の蝶たちをして、刮目させ、幾分の嫉妬を感じさせる
ほどに均整の取れたものだった。
 長身に広い肩幅を持ち、すらりとした輪郭を描きながらも、胸と尻は優美に膨らみ、実に
女らしいくびれを形作る。
 適度な筋肉で引き締まった身体は、柔らかさだけでなくしなやかさをも備え、自らの肉体を
苛め抜いた者にしか手に入らぬ類の美を湛えていた。
 にもかかわらず、そのおよそ完璧に思われる美をぶち壊しにするかのように、肢体には
無数の傷跡が走っていた。荒事と無縁のわけではない蝶たちには、それが矢傷刀傷の類である
ことが見て取れた。

 惚れ惚れとすればよいのか、嫌悪に顔をしかめればよいのかわからず、女たちはただただ
唖然とマクシーンを見つめるしかなかったのである。

 音を立てて扉が閉まり、マクシーンが浴場を後にすると、女たちのうちの一人から呟きが
漏れた。
「あんな娘、ウチの店にいたかしら?」
 だが、残る二人にももちろん心当たりはない。年長の一人がようやく答えた。
「レディたちなら、知っているんじゃない?」

 *  *  *

 浴場を後にしたマクシーンは、すぐさま銀色の甲冑に身を包み、「持ち場」へと戻る。
 道すがら、二匹の緑竜と出くわしたので、斧槍で切って捨てた。
 殿堂の警護を預かる彼女にとって、それは仕事の内である。
 この階層をうろつく程度の魔物の相手など、湯上りの運動にすらならない。

 せっかく湯で磨き上げた身体に、緑竜のきつい血臭が纏わりつく。多少の返り血も浴びた。
 とはいえ、もとよりそんなことを気にする類の女ではなかった。

 殿堂の門の前に辿り着くと、定位置に立ち、斧槍を構える。
 回復のための入浴と僅かな睡眠を除いて、ひたすらここでこうして門を守り、あるいは
モギリの真似事をするのが彼女の仕事であった。

「マクシーン」

 そこに、声がかかった。
 珍しいことである。
 客人を迎えるのとは逆方向から、つまり殿堂の内側から名を呼ばれた。
 マクシーンは訝しげに振り向き、そして、声の主、歌姫ブレンダの姿を認めた。

 ブレンダは両腕を組んだ優雅な所作で、殿堂の入り口に肩を預け、マクシーンを見つめて
いた。
 先程の蝶たちと同じように、波打つ黒髪を高く結い上げている。
 肩をはだけた黒と緋色のドレスも、他の従業員たちのそれと大きくは異ならない。
 しかし、身に纏う気品は段違いであった。
 殿堂の蝶たちは飽くまで「貴婦人風の娼婦」でしかないが、ブレンダはまさしく「貴婦人
そのもの」であり、現実の王侯の妻妾と違わぬ風格を放っていた。

 だからマクシーンも敬意を込めて、こう答える。

「レディ」

 ブレンダを筆頭とする五人のレディたちとマクシーンの付き合いは、浅くはない。
 両者の関係は様々な意味で対等であって、本来敬語で接するような間柄ではなかった。
 しかし、この殿堂においては、彼女たちレディは主の代行であり、無数の従業員を束ねる
実質的な経営者であり、対してマクシーンは単なる門衛であるに過ぎない。
 マクシーン自身その役割分担に不満は持っていなかった。だから立場をはっきりさせる
ためにも、ブレンダたちを「レディ」と呼ぶのである。

「浴場では、若い娘たちが不愉快な思いをさせたみたいね」
 気まずそうに口を開いたブレンダに、マクシーンは「いえ」と短く答えた。
 銀の小手で覆った指先で、自分のフルフェイスの表面をこつこつと叩く。
「普段はこいつを脱ぎませんからね。無理もない」
「そう」

 曲がりなりにも創業者の一人の顔を知らなかったことが「無理もない」のか、それとも
「ビッグ・マックス」を男だと思い込んでいたことが「無理もない」のか。
 口ぶりからはどちらなのか判断がつかなかったが、いずれにせよマクシーンはその程度の
ことを意に介するタイプの人間ではない。
 ブレンダもそれは十分に理解していたから、マクシーンの言葉に小さく頷くと、従業員たちの
非礼についての話題を早々に切り上げる。
 もともと、様子伺いにくるための口実のようなものだったのである。

「少し、疲れているのではなくて?」
 ブレンダは改めて、さり気ない様子でその言葉を口にした。
 口調に本心からの気遣いが滲む。だが、マクシーンはこれにも素っ気無く答えた。
「さっき泉に浸かったばかりですが」
「私は気持ちの問題を聞いているのよ」
「ご心配なく。この辺の魔物相手なら、三日徹夜した後でも遅れはとりませんよ」
 それは事実だった。
 この門衛の桁違いの実力は、殿堂に属する人間なら誰でも知っていることである。
 しかし、取り付く島もない受け答えはかえってブレンダを不安にさせた。

 ブレンダは両腕をきつく抱きながら、独り言のように呟く。
「それはそうでしょうけれど。
 最近は腕利きの冒険者がこの迷宮に潜り始めているとも聞くわ。その全員が話の通じる
相手ではないのよ?」
 脅すようにというよりは、自らが怯えるようなブレンダの問いかけに、マクシーンは
甲冑の奥で低く笑いながら答えた。
「……そいつは楽しみだ」
 それは実力に裏打ちされた軽口のようにも聞こえたが、本心から、命のやり取りを
楽しみにしているようでもあった。

 ブレンダは、その暗い笑い方に不審を感じ、マクシーンの顔を覗き込む。
 しかし、海千山千のレディ・ブレンダをしても、フルフェイスの奥の表情まで読み取る
ことはできなかった。
「冗談です。冗談ですよ、レディ。あいつが戻るまでは、死ねませんよ」
 打ち消すように平然と続けるマクシーンを、ブレンダは何か痛ましいものでも見るかの
ような様子で見つめた。喉から出かかった憐憫の言葉を押し込めて、ただ一言、「そう」と
だけ呟く。

 場に沈鬱な空気が下りた。
 これ以上踏み込むことを諦めたブレンダは、背後の扉に手をかけ、勤めて享楽的に口を
開く。
「たまには奥にいらっしゃい。姉妹同士、慰め合うことも必要よ」
 マクシーンは軽く肩を竦めて応えた。
 ブレンダなりの気遣いであることはわかっていたが、レディたちの淫らな狂宴に参加する
気にはなれなかった。
 性の快楽に興味がないわけではない。
 ただ、「死」の匂いのしない人間と肌を重ねても、気が滅入るだけなのである。

 「死」にまつわることだけが、彼女には実感をもって受け止められる。
 戦闘もそう。地下迷宮もそう。それは、ベッドの上でも変わらない。
 マクシーンが抱かれても良いと思える男とは、閨の中にまで濃厚な死臭を持ち込むような
手合いである。
 自分と同じ匂いのする男。
 そういう男にだけ、彼女は濡れる。
 もっとも、そんな人間は、彼女の知る限りではたった一人しかいなかったが。

 殿堂の扉が閉まり、レディ・ブレンダの気配が消える。
 マクシーンは、再び直立して門衛の任に戻りながら、いつものように、そのたった一人の
男の追想に耽っていった。

 *  *  *

 平穏な時代の話である。
 かつて幾度もの危難に見舞われてきたここリルガミンもまた、泰平と繁栄のまどろみを
享受していた。
 僭主による王位簒奪。未曾有の天変地異。かつてこの街を襲った伝説的な厄禍の数々も、
今や幾人かの古老たちの記憶の彼方に埋もれつつあった。

 ギルガメッシュの酒場。
 街外れに程近い、市壁の際。流浪者相手のいかがわしい店々が軒を連ねる一角に、一際
目立つその大きな店構えを見つけることができる。
 触れただけで剥落しそうなほど老廃した漆喰の壁。長年のヤニが染み付いて飴色に焦げた
柱。一目見てわかるほど古さびたその建物は、危難の時代から変わらずそこにあり続け、
そして、今なお健在であった。

 日没とともにランプの灯りが燈り、紫煙と艶笑、喧騒と安酒の臭いが通りへと漏れ出す。
 それは何十年も昔、そこが地下迷宮に挑む冒険者たちの拠点として賑わっていたころと
寸分違わぬ光景であった。

 もっとも、集う客の気質は、少々変わってしまったかもしれない。

 かつて酒場を沸かせていた若者たち。
 身の丈に合わぬ野心に目をぎらつかせ、黴臭い地下迷宮に青春を――ときに、しばしば、
その命さえもを――捧げた冒険者たち。
 地下での恐怖を紛らわせるため、狂ったように酒杯を重ねる彼らの姿は、もはや見ることが
できなくなっていた。
 地下迷宮に挑む冒険者。そういった存在自体、今となっては御伽噺の中のものでしかない。

 今、この酒場の常客となっているのは、もう少し利口で享楽的な人間たちである。
 冒険者という呼称だけは同じであったが、彼らには潜るべき地下迷宮はなかった。その
代わりに、彼らは、分相応の金の稼ぎ方というものを知っていた。
 ゴロツキのように群れて、ちょっとした使い走りや便利屋の真似事に精を出す。必要と
あれば剣の腕や魔術も披露するが、それは本当に奥の手でしかない。
 命は惜しみ、危険は避け、日銭を稼いで一杯の酒にありつければ御の字というもので、
たまに森の奥に出向いてオーク討伐でもすれば、大変な武勲といった具合。

 こうした変化を、堕落と捉えるものもいるかもしれない。
 だが、時代は変わり、街も変わった。
 要するに、冒険者という生き方もまた、その変化に適応していったということである。
 もっとも、何事にも例外というものはある。

 *  *  *

「千年の都、我らがリルガミンの平和に乾杯!」

 赤ら顔の男が音頭を取ると、酒場のあちこちから応ずる声が上がった。
 ピュータ製の蓋付きジョッキが打ち合わされ、エールの泡が飛沫となって宙に散る。
 ドワーフの僧侶とエルフの魔術師が仲良く酒を酌み交わし、人間の戦士がホビットの
盗賊を口説きにかかっていた。

 マクシーンはそうした喧騒に背を向けて、一人無言で火酒をあおった。

 酒場の片隅、薄暗いカウンター前の並び。彼女のほかには、酔いつぶれたと思しき客が
一人、二人、樫の木台にもたれかかるように掛けているだけであった。
 時代に取り残された遺物のような一角。
 カウンターの中では古ドワーフの店主が黙々と立ち働く。
 フロアの熱気からは隔絶されていたが、それを心地よいと感じる者もいる。
 マクシーンはこの場のうら寂れた空気に潜むようにして、ただひたすらに酒杯を重ね、
彼女自身の孤独と苛立ちとを慰めていた。

 遠い以前には自分もその輪の中に入っていたはずの、背後の乱痴気騒ぎ。それが、今は
ひどく煩わしい。
 彼らの笑顔はどこか弛緩している。彼らの酔態はどこか躁的で空々しい。
 もっとも、マクシーンは、そう感じてしまう自分自身こそが、性質の悪い中毒者なのだ
ということを理解していた。
 だからこそ、かつての仲間たちへの苛立ちを吐き出すこともできず、ただ背を向けて、
鬱々と酒に溺れるしかないのだ。

 それは奇妙な光景である。
 長身としっかりした肩幅が無骨な印象を与えるが、それに目をつぶれば、顔のつくり
自体は悪くない。そういう女が一人で杯を傾けているというのに、言い寄ってくるものは
皆無であった。
 時折、店主に酒を注文しにくる者たちがいる。もちろん、マクシーンの存在に気づかぬ
はずはない。しかし、彼らは早々に用を済ませると、彼女を一瞥することさえなく、もとの
喧騒の中へと帰ってゆく。
 そのよそよそしい様子には、同じ冒険者仲間としての気安さは感じられない。かといって、
まったくの無関心というわけでもない。
 それは理解できないものに触れまいとする細心さ、ある種の忌避感のようなものの表れに
違いなかった。

 かつてはマクシーンも、彼らと同質の存在だった。
 幾分無愛想なところはあったにせよ、少なくとも異物ではなかった。
 その美貌に似合わぬ長身をからかわれて、「ビッグ・マックス」と愛称されるほどには
親しまれていた。戦士としての実力の高さも、畏怖というよりは敬意の対象であった。
 ただ、たった一つのある体験が彼女を変え、結果として、彼女に対する仲間たちの態度
をも変えた。
 それは一言で表すなら、「R.I.P」。
 冒険者の間で「平穏の裡の安らぎ」を意味する、古い隠語である。
 彼女は、それを経験していた。
 つまり、一度死に、そして、生き返ったのである。

 いかに平穏の時代の冒険者とはいえ、危険とまったく無縁というわけではない。
 死ぬ者も、いないではない。
 しかし、駆け出しならいざ知らず、自らの蘇生費用を支払えるほど経験を積んだ冒険者が
命を落とすことは稀であり、すっかり技術を錆付かせたカント寺院の僧たちが、実際に
蘇生に成功してみせることは、さらに稀であった。
 そうして一度死を経験してなお、冒険者であり続けている者となると、マクシーンが
ほぼ唯一であったといってよい。
 それは幸運なことであったが、同時に不幸なことでもあった。
 彼女にとって、「死」の体験は、それくらい強烈なものだった。

 そのときのことを、彼女は今でも鮮明に記憶していた。
 さしたる危険もないと思われたいつも通りの仕事――人食いトロールの討伐に向かった
ときのことである。
 その道中で、彼女たちの一行は「獣」に出くわした。まったくの不幸な偶然だった。

 直立し雄叫びを上げる青黒い肌の魔物。
 明らかに手に余る化物を目にした彼女たちは迷わず逃亡を決意した。
 その判断自体は適切だった。彼女は戦士としての務めを果たすべく、逃げる仲間たちの
殿に立つ。今にして思えば無謀なことだが、ほんの僅かな時間稼ぎのつもりだった。
 そして、そいつのたった一撃で、手もなく体を引き裂かれてしまったのである。

 眼前が炸裂するような一瞬の後、彼女はまず、自分が助からないということを認識した。
 自分の体に隙間があったのだ。もぎ取れかけた肩がだらりと垂れ下がり、空気が吹き抜けて
いた。
 これは、もう、駄目だ。助からない。
 出血と発汗と失禁が同時に起こった。
 凍りついた意識。その瞬間に感じていたのは、苦痛ではなく恐怖だった。

 途方もなく巨大な存在が、目の前に立ってマクシーンを見下ろしていた。
 それはもはやビーストという生身の化物ではなく、受肉した「死」そのものだった。

 そいつはにやりと笑い、彼女の顔に獣臭い息を吐きかける。
 嫌だ。やめろ。私に触れるな。
 彼女の意識は怯え、抵抗を試みるが、そいつは無慈悲にも血の気の失せた彼女の体を抱え
上げる。逃れる術はない。誰も助けてはくれない。
 そして、そいつは彼女を貪り、犯し始めた。
 そいつは彼女の肉を喰い破り、彼女の臓腑をすすり、彼女にペニスを突き立てた。

 恐るべきことに、その一部始終を、彼女の意識は途絶えることなく観察し、知覚し続けて
いた。腕を千切られ、股を裂かれても、彼女は泣き、わめくことができた。
 気の遠くなるような長い時間蹂躙され続け、一片の肉塊となってもなお、それでも恐怖は
終わらなかったのである。
 おそらくは、どこまでかは現実に起こったことで、どこからかは、絶命した彼女が見た
悪夢だったのだろう。首尾よく逃げおおせた仲間たちが引き返し、発見した彼女の死体は、
少なくとも原形を留めたものであったという。

 死とは一瞬で去来する虚無のようなものではなく、ロストに向けて長い時間をかけて
魂を消尽させていく過程なのである。
 マクシーンは、それを幻視し、身をもって体験した。
 存在を凌辱される「死」という出来事を、その精神に刻み付けたのである。

 それと比べれば、蘇生の瞬間など呆気ないものだった。
 気がつくと、寝起きのような、曖昧で朦朧とした自分がいる。いつの間にか呼吸が
始まっていて、目が醒めて、目蓋が開き、体が起き上がる。
 胸を撫で下ろす僧侶たちの顔。涙さえ浮かべて喜んでくれている仲間たちの顔。どれも
奇妙に現実感がなく、絵空事のようだった。

 あんなにも濃密な「死」が、こんなことで帳消しになるものだろうか。マクシーンには
信じられなかった。どちらかといえば、生き返った自分のほうがはるかに嘘臭く、まがい物
めいていた。
 二つの体験の落差からくる非現実感。
 不幸なことに、蘇生後の意識の混濁が去ってもなお、それは彼女の中から消えることが
なかった。

 喜びも悲しみも、本能的な快楽や苦痛さえもが、どこか仮初の、どうでもよいもののように
感じられてしまう。
 何をしても、何をされても、ほとんど心が動かなくなってしまった。
 ただ唯一の例外は、危機に陥ったとき。それも、再び「死」を覚悟するほど圧倒的な危険に
遭遇したときである。
 その瞬間、「死」の記憶が鮮烈に蘇えり、体の軸を揺るがすほどの現実感を呼び起こされる。
 そして、その死地を切り抜けると、途轍もない充実感が跳ね返ってくるのだ。
 死んでもいい、とか、死にたい、というわけではない。
 依然、「死」は恐ろしい。
 ただ、それを身近に置くことで得られる充実感が、マクシーンを虜にした。

 そうして、彼女は変わった。
 生きることに伴う感情の起伏が減り、危機への警戒心を鈍磨させていった。
 傍からは、好んで死地を追い求めているようにすら、見えたかもしれない。

 巻き添えを恐れた仲間たちは一人去り、二人去っていった。
 それでも彼女は寂しいとさえ感じなかった。
 お互いの齟齬はとっくに抜き差しならないものになっていた。仲間たちにとってもそう
だったが、彼女にとってもそれは同じだったのである。
 仲間を作らず、ただ一人で、危険な仕事ばかりを請け負う。
 その自分を追い詰めるようなやり方は、彼女の戦士としての実力を高めた。結果として、
名も上がった。もっともそれは、畏怖と軽蔑が多分に入り混じったものだったのである。

 *  *  *

「ニューエイジ・オブ・リルガミンに乾杯!」

 背後で再び歓声が上がった。
 なるほど、うまいことを言う。マクシーンは唇の端を歪めて嗤った。
 確かにこの街の苦難の歴史を思えば、今の久しい平穏は祝うべき新時代と言えるのだろう。
宝珠がもたらされて以来の繁栄と平和。
 「冒険者」だからといって、それを謳歌していけない法はあるまい。

 ふと、マクシーンはリルガミンの「オールドエイジ」に思いを馳せた。
 「呪いの穴」や「龍の山」が実在していた昔話の時代。
 それらを求めてやってきた命知らずたちが、この酒場に溢れていた時代。
 その頃であれば、マクシーンのような冒険者など、珍しくもなかっただろうに。

 そこまで考えて、自嘲気味の苦笑が洩れた。
 自分が生まれる以前の時代を懐古しているようで、なんとも滑稽だったからだ。
 そして、その苦笑を誤魔化すように酒杯を持ち上げたところで、唐突に、彼女の耳に
誰かの声が届いた。

「退屈な連中だ」

 先ほどの乾杯に呼応して、それを嘲笑うかのように言い放たれた一言だった。
 背後からではなく、すぐ側から聞こえたその声の主を探して、一瞬、マクシーンの視線が
さ迷う。
 そして、自分と同じカウンター前の並びに腰掛けた一人の男の上に止まった。酔い潰れて
正体を失った客だと思って、それまで意識に留めてもいなかった相手だった。
 男はマクシーンの視線を受け止めると、今度ははっきりと彼女に向けて呟く。

「連中は本当の娯楽というものを知らないのさ。あんたもそう思うだろう?」

 奇妙な男だった。
 上等な仕立ての緋色の胴衣に、深紫のマント。手元には房飾りのついた白帽子が置かれて
いた。派手派手しい装いは、道楽者の貴族のようでもあり、道化師のようでもある。
 だが、その胡散臭い服装にもかかわらず、男の印象はひどく希薄だった。
 顔は美男でもなく、醜男でもない。喩えて言えば、川底で研磨され続けた丸石のように、
妙にのっぺりとしていて、とらえどころがない。
 年齢も不詳だった。自分よりは上だろう。しかし、どれほど年嵩なのかはわからない。
 十も離れていない気もするし、二十ほど違っていてもおかしくはないという気もする。
幅があり過ぎるのだ。

 酔った男に絡まれたからといって、まともに取り合ってやらねばならない道理はない。
 男の問いかけを黙殺することもできたはずだが、彼女はそうはしなかった。
 男の雰囲気に飲まれたからかも知れず、先ほどの言葉に引っかかりを感じたからかも
知れない。

「……他人の楽しみ方にケチをつけるのは、あまり良い酒ではないな」
 探りを入れるように、無難な言葉を返してみる。
「楽しみ方だって? あれが? あんなものは、ただの退屈しのぎだ」
 男は演技のように肩を竦めると、面倒臭そうに呟いた。
 泥酔した勢いで絡んでいるだけなのか、それともそう装っているのか、マクシーンには
判断できなかった。

「人それぞれ、だろう」
「なら、あんたはどう思うね? ビッグ・マックス?」
 その一言が、マクシーンの酔った頭に注意を呼び戻した。
 もう一度、じっくり男を観察する。
 やはり見覚えのない顔だった。これだけ印象の希薄な男のことは、かえって忘れたりは
しないだろう。少なくとも、リルガミンを根城にする冒険者ではないはずである。
 にもかかわらず、この男は自分を知っている。
 通り名と、そしておそらくは、それに付随して囁かれるあれやこれやの噂を知った上で、
こうして自分に声をかけてきているのだ。

 警戒心が沸く一方で、興味も抱いた。
 「ビッグ・マックス」について聞き知っていながら、自分のことを忌避するのではなく、
わざわざ搦め手で声をかけてくる。
 それは珍しいことではあったし、そこにどんな意図と目的があるのか気にもなった。
「お前は、何者だ」
 問いには答えず、マクシーンは質問を切り返した。

 男は気分を害した風でもなく、面倒臭そうに、あるいは退屈そうに答えた。
「おれか。おれはマンフレッティ。魔術師だ」
「……聞かない名前だな」
「この街に戻ってくるのも、随分久しぶりだからな。知らなくても無理はない」
 質問には答えているはずなのに、なぜか、はぐらかされているような印象を受けた。
 この男は何者で、なんのために近づいてきたのか。それがまったくはっきりしない。

 マクシーンはより直截に問うことにした。
「私になんの用だ?」
 冒険者として仲間に誘いたいのか、それとも何か仕事を頼みたいのか。
 見知らぬ冒険者に声をかける理由は、つまるところ、それしかないはずである。
 だが、男の様子からはそのいずれともうかがえなかった。
 マクシーンは酔眼で、挑むように男を睨みつける。

 すると、マンフレッティと名乗る男は、懐から重みのある皮袋を取り出し、マクシーンの
前に置いた。
 樫の木台の上で、金属が擦れ合うじゃらりという音が鳴る。
 開きかけた口からのぞく輝きを目にして、マクシーンは息を呑んだ。
 金貨だった。これだけの量なら、大金である。
 男は反応を確かめるように間を置いてから、ゆっくりと口を開いた。
「本当の娯楽に付き合ってくれる人間を、探していてね」

 *  *  *

 ギルガメッシュの酒場のある一帯は、リルガミンの外からやってきた者にとっては、
玄関口にあたる。
 ということは、逆に、市民の側の視点から見れば、街の中心からは外れた辺縁部という
ことである。接しているのが正門ではなく、訓練場などに通じる裏手門であることもその
印象を強めていた。
 その立地のゆえに、表通りでは商売できないような怪しげな店も、ここではその存在を
許されている。

 「王家の蜜室」亭もまた、そうした店の一つであった。
 その名に似合わず、慎ましやかな作りの店構えを持つ。
 一人二人が泊まれる程度の小部屋のみからなる、素泊まり宿。そういう名目であったが、
旅客の宿泊という本来の目的で利用されることは、まずなかった。
 要は、街娼を連れ込むための場所である。

 マクシーンは軽い失望を覚えていた。
 マンフレッティに誘われるまま、酒場を後にし、辿り着いたのがこの店だったからだ。

 なぜ易々とついて来てしまったのか。
 既に大分酒を入れていた。正直に言えば、大金に幻惑された部分もある。
 だが、何よりマンフレッティのもったいぶった言葉に、一抹の期待を抱いてしまって
いたからだろう。
 それは、自分の想像を越えた何かがあって欲しいという期待だった。

 ところが蓋を開けてみれば、うんざりするほどありふれた話だったわけだ。
 こんなものが「本当の娯楽」か、という失望もある。つまらない期待を抱いてしまった、
自分に対する失望もあった。

 女冒険者が春をひさぐことなど、珍しくもない。
 冒険者とはつまるところ、金のために多少の危険を顧みない連中であり、そうであるなら、
より安全に金を手にできる手段を厭う理由はなかった。
 同業の男たちから金を吸い上げることもあれば、普通の娼婦に飽きた街の男たちに売る
こともある。

 マクシーンとて、そうした行為に抵抗は感じない。嬉々としてするほど好き者ではないが、
機会があり、金に困っていればやっただろう。
 ただ、「死」を経験して以降は、考えもしなかったことではある。
 あの体験以来、色褪せてしまったものは数多いが、男に抱かれることはその最たるものと
言える。感じもせず、濡れもしないなら、行為は苦痛でしかない。はした金で身を任せる
のは、いよいよ割りに合わなくなっていた。

 もっとも、以前に増して剣呑な空気を漂わせ始めた「ビッグ・マックス」に、その手の
誘いがかかることもまた、なくなってはいたが。
 その点、マンフレッティという男は、物好きを通り越して相当な恐れ知らずである。
 体目当てだったことはマクシーンを失望させたが、少なくともそこは、彼女も認めざるを
得なかった。

 *  *  *

「消さなくていいのか?」

 背後の寝台から声がかかり、マクシーンは上着にかけた手を止めた。
 酒の残った頭でぼんやりと、言われたことの意味を考える。やがて、ランプの灯りを
消すかどうか問われているのだと気付き、失笑した。
「見たければ、見ればいい」
 振り向きもせず、吐き捨てるようにそう答えると、無雑作に上着を脱ぎ放つ。

 獣脂の燃える赤い灯明の下、引き締まった上半身が露になった。
 男なら誰しも溜息を洩らすほど均整のとれた体つき。
 しかし、右頸部から真下に向けて、まるで力任せに肩を引き千切ったような醜い傷跡が
ある。明らかな致命傷の痕跡であった。
 マクシーンが一度死に、そして生き返った存在だという証でもある。
 その他、細かい創傷も合わせれば、夥しいほどの古傷があった。
 たとえ女でも、戦士である以上避けられない負傷はある。もっとも、その大半は、彼女が
「死」を体験してのち、自身の肉体をあまり顧みなくなってからのものであった。

 マクシーンはそれらを見せ付けるようにして、革のズボンに手をかける。
 傷だらけの体が男たちを萎えさせるということを、彼女は十分に理解していた。だから
こそ、惜しみなく晒す。
 相手にその気がなくなったなら、それはそれで結構なことである。
 もともと喜んで抱かれるわけではない。
 男の意図を察さぬまま、ここまでついて来てしまった。結果として、自分の宿に戻るのが
面倒になった。
 こうしてこの場に留まり、服を脱いでいるのは、ただそれだけの理由だった。

 やがて一糸纏わぬ姿となると、寝台の男の横に、仰向けにわが身を投げ出した。
「……早く済ませてくれ」
 目を閉じて、就寝の体勢でそう呟く。
 自分から動くつもりはない。もっとも、その必要もあるまいと踏んでいた。

 すぐ脇に、マンフレッティの気配を感じる。
 自分の裸体を凝視したまま、身動き一つしない。
 案の定、萎えてしまったのだろう。恐ろしい傷跡に抱く気も失せ、さりとて裸の女を
前にして何もしないわけにもいかず、途方に暮れているに違いなかった。
 結局、物見高い好奇心でしかなかったということだ。
 一度死んだ女の身体に興味でも持ったか。だが、いざ目にしてみたら、怯んでしまって
手も出せずにいるのだ。
 つまらない男だ。そして、馬鹿馬鹿しい。

 だが、そう思ってまどろみかけたマクシーンの意識に、低く、熱に浮かされたような声が
届いた。
「いい身体だ」
 その声には、彼女が久しく向けられていなかったものが宿っていた。
 発情したオスの気配。
 それにまず驚き、咄嗟に目を見開く。

 ランプの灯かりを背負った男の影が、まさに自分にのしかかろうとしていた。
 男もまた、既に衣服を取り去っていた。
 マクシーンは息を呑む。
 男の体中に走った、無数の傷跡に気付いたからである。
 薄暗い室内で、しかも逆光であるため、はっきりと断言はできない。しかし、その全てが、
マクシーンの頸部の傷と同じくらい深く、致命的なものに見える。

 そんなはずはない。
 そうだとすると、マンフレッティが経てきた「R.I.P」の数は、二度や三度ではない
ということになる。幾らなんでも馬鹿げた話だった。
 だが、傷跡は見間違いか何かで済ませるとしても、影が漂わせている噎せ返るほど濃密な
死の気配は、誤魔化しようがなかった。

 それを感じ取った瞬間、緊張が走り、体が強張った。
「あ、……あ、」
 喉の奥で、言葉にならない何かが洩れた。
 脳裏に、あの「死」の記憶が駆け巡ったからである。
 「死」に犯され、蹂躙されるイメージ。

 マクシーンは慌てて幻影を振り払う。
 どうかしていた。命を脅かされているわけでもないのに、あのことが思い出されるとは。
 戸惑いながらも、自分に言い聞かせる。目の前の男はただの生身の存在で、これからする
こともありふれた行為なのだと。
 それでも、背筋に走る小さな震えは止まらなかった。

 すると、男の手がマクシーンの両膝をつかんだ。
 彼女はほとんど反射的に脚を閉じようとする。
 なぜそういう反応になったかは、自分でもよくわからない。当初の目論見では、もし
男にまだその気があるようなら、好きにさせてやるつもりだったのである。
 だが、男の冷たい手が触れた瞬間、彼女の中に恐怖にも似た拒絶が浮かんだ。

 咄嗟の反応ゆえに加減もなく、両膝に鍛え抜かれた戦士の脚力がこもる。
 しかし、男の手はあっさりとそれを押し止め、割り開いてしまった。
 そのことが、マクシーンをさらに混乱させた。
 けっして屈強なわけでもない体のどこにこんな力があったのか。こいつは魔術師では
なかったのだろうか。

 そんな思いを巡らせる間に、マンフレッティの手がぬっと伸びる。
 そして、マクシーン自身に触れた。
 ぬちゃり。
「準備はいいようだな」
 その言葉と、股間に走る湿った感触。
 それらが何を意味するか理解するまでに、さらにしばらくの逡巡が必要だった。

 濡れている。
 そのことがまず驚きだ。自分にまだその機能が備わっていたとは。
 しかも、快感を得られるようなことは何一つされていない。
 行為への期待は愚か、つい先刻まで、性的な昂ぶりはなんら感じていなかった。
 それなのに、のしかかられた一瞬で、愛撫の必要もないほどだらしなく蜜を吐き出して
いたのだ。

 脚をつかむ男の手に力がこもった。
 マクシーンの長身がずるずると男のもとに引きずり寄せられる。
「ひっ……!」
 思考が展開についていけず、短い悲鳴を上げてしまう。

 黒い影が、ゆっくりとマクシーンを覆い、飲み込む。
 ぬりゅ。
 きつい侵入の感触。
 マクシーンの肉弁は十分に濡れていたが、男を迎え入れるほどほぐれてはおらず、
入り口は緊張に強張ってすらいたのである。
 だが、マンフレッティは肉を裂き、杭を打ち込むようにして、容赦なくマクシーンを
掘削し、己を沈める。

「ふっ……く、くはっ……」
 マクシーンは肺の中の空気を一気に吐き出した。
 無理な挿入が苦しいのか。
 それとも、久しぶりに味わう性感に体が驚いているのか。
 全身の産毛が逆立って、体中から嫌な汗が噴き出した。
「んっ……んんんっ、く、……んはっ……」
 新鮮な空気を求めて呼気を喘がせると、思いもよらず女々しい声が洩れる。
 肉根がみりみりと自分に埋まってくる。
 犯されるというよりは、侵されるような感覚だった。

 首筋にちりちりとした刺激が走る。
 腰に、きゅうとすぼまるような感覚が生まれ、それが甘い痺れになって肉を溶かす。
 抉りこまれ、内部をかき回される感触。
 どれも、久しく忘れていた。「死」を経験してからは、男に抱かれて感じることも、
濡れることもなかったというのに。

 抽挿がはじまった。
「ふっ、んっ、……んあっ、はっ……んふっ、ふあっ、はっ……」
 情けない。
 まさか、自分が、いいように男に鳴かされるとは思わなかった。
 四肢には萎えたように力がこもらず、男の動きに合わせて声を弾ませることしかできない。
 生々しい感覚の波に、まるで生娘のように戸惑い、流される。

 だが、心地よさに身を委ねていられたのはそこまでだった。

 忙しく息を喘がせていたマクシーンの喉に、男の手が触れる。
 それが何を意味するか、気付けなかった。
 戦士としては余りに不覚。それほど彼女は戸惑い、我を失っていた。

 掌から伝わるじんわりとした体温を感じたかと思った瞬間、それが万力のように締まった。
「――っ!」
 ごつごつとした手が、容赦なく気道を絞り、血流を止める。
 まさか、と思う間もなかった。
 こもった力の強さが、本物の殺意をマクシーンに伝える。
 男の腕を引き剥がそうと両手をかける。
 しかし、爪を食い込ませ膂力を振り絞っても、微動もさせることができない。
 混乱のまま足をばたつかせる。
 跳ね飛ばそうと本気でもがいているのに、のしかかる体は重石のようだった。

「ぐ……がっ、……んぐっ」
 額から油汗が伝う。
 開いたまま固まってしまった口中で、舌がびくびくと痙攣する。
 堰き止められた唾液が、唇の端から溢れ、零れる。
 ぼやけた視界に、男の顔が黒い影となって映った。
 自分を縊り殺そうとしている男の表情は、見えない。

「……ぅ……ぁ……」
 抗う手足から力が抜けた。
 次第に、頭がぼうっとして思考が定まらなくなる。
 悶えるほど苦しいはずなのに、意識は靄がかかったように曖昧だった。

 殺される。
 私は、この男に殺される。
 収集のつかない思考で、ようやくそれだけのことを認識する。
 すると、まるで絞められた喉に呼応するように、マクシーンの内部がきゅっと締まった。
 自分を殺そうとしている当の男の分身に、すがり、助けを求めるように絡みつく。

 朦朧とした意識の中で、膣内の知覚だけが妙に生々しく浮かび上がった。
 はっきりと、男の形状まで感じ取れる。
 それは、肉の槍だった。
 抵抗する力を失った自分は、この槍で最期の止めを刺されるのだ。
 恐ろしくも甘美な期待。
 マクシーンは、恐怖に濡れた。
 まさに命を奪われようというこの瞬間、彼女はむせび泣くように愛液を搾り出していた。

 男の腰が動き出した。
 ぎちぎちに絡み付いていた膣壁に、引きずり出されそうな強烈な快感が駆ける。
 そして、魂までもを引き抜かれた虚脱の瞬間、再び肉根が突き込まれる。
 体中が痙攣した。
 喉を絞められ、声を喘がせることすらできない。その代わりに、全身が声帯となって
悲鳴をほとばしらせたのである。

 男は何度も何度も肉槍を突き立てた。
 その一突きごとに、マクシーンは殺された。
 血潮ではなく愛液を流し、断末魔に代えてその身をわななかせる。
 だが、何度絶命しても、処刑人はその手を止めなかった。
 鋼鉄の肉槍を振り下ろし、肉を貫き、臓物を抉り、彼女を原型すらとどめないぐずぐずの
肉塊へと変えてゆく。

 だが、男の欲望は限りなくとも、彼女の生命の炎は限界だった。
 微弱に明滅するマクシーンの意識。
 男の腰が打ち付けられ、全身に鈍い衝撃が走ったその瞬間だけ、閃光のような恍惚が走る。
「ぁ……ぃ……っ……ぁ……」
 何度目かの絶頂の瞬間に、一際強烈な一撃が突き込まれた。
 意識をつないでいた最期の糸が切れる。
 そして、マクシーンは深い黒暗淵の底へと落ち込んでいった。

 *  *  *

 静寂の中、ぱちぱちと、獣脂のはぜる微かな音だけが聞こえる。

 いつの間にか、マクシーンは意識を取り戻していた。
 後頭部に嫌な痺れがある。だが、とりあえずまだ生きているようだった。

 彼女は、横たわったままの自分の体にゆっくりと意識を巡らせてみる。
 どうにも、自分の体だという実感がわかない。
 ふと、この非現実感は何かに似ていると感じた。一度死に、甦ったときの記憶。あれに
少し似ている。

 マクシーンは徐々に目蓋を開いた。
 そこはもちろん、カント寺院の蘇生室ではなかった。
 安宿の煤けた天井が視界に飛び込む。
 腰の辺りに、何かがわだかまる感覚がある。情事の後、それほど時間は経ってはいない
のだろう。
 喉に触れてみると、鈍い痛みが走った。

「起きたか」
 マンフレッティの声がした。
 視線だけを横に動かすと、そこに例の印象の希薄な顔が映りこむ。事の最中に感じた
ような威圧感は、欠片も残っていなかった。
 怒り狂って斬りかかっても許される状況だと思った。
 思いはしたが、どうにもそれだけの気力は湧かなかった。
 ただひたすら、全身が気だるい。

 目の前にゴブレットが突き出された。
 上体を起こし、それを受け取る。口元に近づけると、鮮烈な火酒の香気が鼻腔をくすぐった。
 気醒ましに、一気に呷る。
 喉に焼けつくような痛みが走った。無理もない。
「……二度とごめんだ」
 かすれた声で呟く。

「は、は、は。まあ、ああいう楽しみ方もあるってことだ」
 忌々しいマンフレッティの笑い声が返ってきた。
 マクシーンはその顔を睨みつける。
 しかし、マンフレッティは動ずることなく、臆面もなく続けた。
「ビッグ・マックスが噂通りの女か、確かめてみたかったのさ」
「噂?」
 首を絞めながら犯すことで確かめられるような、どんな噂があるというのか。
 そう腹を立てかけて、逆に自嘲の念が湧いた。
 自分に関して、どんな禄でもない噂が立てられているか。それは彼女自身がよく知って
いたからだ。

「死にたがりの女戦士だとか、その手の話か」
「まあ、そうだな」
 頷きを返され、暗鬱な気分が増した。
 ああした異常な抱かれ方をして、派手に気をやってしまった。
 「死」を体験して以来初めての絶頂だったし、それ以前を含めても、あそこまで乱れた
ことはなかった。
 つまり、自分はその手のくだらない噂通りの女だと、身をもって示してしまったわけだ。

「満足か?」
 マクシーンは溜息を洩らし、嘲笑うように尋ねる。
 しかし、マンフレッティは揶揄するでもなく、ひどく真剣な様子で答えた。
「ああ。おれの娯楽に付き合える人間だとわかったからな」
 その言葉に、マクシーンは怪訝に眉を寄せた。
 あの行為自体がこの男の言う「娯楽」なのだろうと、そう思っていたからだ。

 すると、マンフレッティは薄く笑い、こんな言葉を口にした。
「……生き汚い人間には、地下に潜る資格がない」
 話の脈絡を見失い、マクシーンは鸚鵡返しに聞き返す。
「地下、だって?」
「ああ」
 頷くマンフレッティの顔を、マクシーンは注意深く見つめた。
 相変わらず、とらえどころのない茫洋とした面立ちだ。だが、その話題を口にした一瞬、
瞳が異様な色彩を帯びたのを、彼女は見逃さなかった。
 男の目に宿っていたものを、なんと形容したらよいか。
 野心のようでもあり、自棄のようでもあり、単なる酔狂のようでもある。
 強いて言えば、やはり狂気だろうか。

 狂人が口を開く。
「魔物と罠に満ちた地下迷宮。それが、おれの求めている本当の娯楽だ」
 マクシーンがその意味を理解するまで、一瞬の間が必要だった。
 真意を測りかね、重ねて問う。
「それに付き合えと?」
「そうだ」

 要は、地下迷宮を探索するための仲間を探している、ということだろうか。
 マクシーンは彼女なりにマンフレッティの言葉を咀嚼し、そして、一笑に付した。
「……馬鹿馬鹿しい。そんなもの、どこにあると言うんだ。
 地下迷宮だって? まるで御伽噺だな」
 呪いの穴、龍の山――そうしたものは伝説の中、昔語の中の存在である。本物の娯楽か
何かは知らないが、そんなものを追い求めること自体、正気の沙汰ではない。 
 だが、マンフレッティは再び口を開き、そして、さらに正気の沙汰と思えないような
ことを口にした。
「なければ、作ればいい」
 こともなげに、そう言い放ったのである。

「正気か?」
 一瞬、からかわれているのだろうかという疑念がマクシーンの中に浮かぶ。
 しかし、マンフレッティはまったく変わらぬ調子で、ただ瞳に帯びた熱だけを強めて、
言葉を続けた。
「このリルガミンの地下に、おれはおれの理想の迷宮を作る。
 ビッグ・マックス。お前さんには、その手伝いをしてもらいたい」
 マクシーンは眉を顰めた。
 地下迷宮を探す、というだけでも突飛な妄言だが、それを作りたいとまでなると、なんと
評してよいものかわからない。
 ただ、いずれ正気でないにせよ、少なくとも本気であるらしいことは理解できた。
 もちろん、正常の感覚の持ち主であれば、これもまた、鼻で笑って済ませればよい話
である。
 正常の感覚の持ち主ならば。

 もう一度、マンフレッティの瞳をのぞきこむ。
 そこに、行為の最中に見せたような、底冷えのする「死」の気配が見えた。
 まるで情事の余韻のように、マクシーンの背筋がぞくりと震える。

 彼女の口をついて出たのは、拒絶の言葉ではなかった。
「マクシーンだ」
「……なんだって?」
「名前だ。その、男か女かわからない通り名は、あまり気に入っていない」
 とりあえず、抱かれた男にまで「ビッグ・マックス」と呼ばれるのは腹立たしい。だが、
そこさえ改めるなら――少しくらい付き合ってやってもいい。
 そんな気分になっていた。
 男の狂気の正体を知りたいと思ったからだ。それは、自分の狂気と似ている気がした。
 マクシーンもまた、正常の人間ではなかったのである。
 そして、目の前の男を真似て、大袈裟に肩をすくめた。

(後編につづく)





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